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波紋(十)

 少女が肩を下ろし、力なく入ってきた。その様子に老人は気づいていたものの、じっと見つめるだけだった。
 ふぅ。
 ロンダに聞こえるようなため息を漏らしてみせる。老人は彼女を見つめ続けるだけである。
 ツェナは老人のいる部屋を歩きまわっている。ときどき老人の顔にちらりちらりと視線を向けながら。
 だんだんと彼女の辛気くさい顔に元気が戻り始める。その赤くなった顔で老人の真っ正面に立つ。
「もう」
 両腰に手を当てて彼女はきつい視線を向けている。その視線で何か状況が変わることはな かった。
「悲しそうにしている女性がいたら、何か一言くださってもいいのではありませんか、ロンダ老」
 人差し指を一本だけ立てて教え諭すように彼女は告げた。
「おやおや、どちらに悲しそうにしている女性がいるのですかのぉ? はて、最近、目がよく見えんようになったのでのぉ」
 目を必要以上に細めて室内を見回す。その様子が実に芝居がかっている。ツェナは唇を噛み締め眺めていた。
「さて、冗談はさておき」
 椅子に深く座りなおし、真面目な顔をつくり問いかける。
「お二方や皆様のご様子はいかがでしたか?」
 ツェナは両肩の力を抜き、近くの腰掛けを引き寄せ、真正面に座り込んだ。
「いたって元気だったわよ。あと数十年は生きるわね、きっと」
 背もたれがないせいか、股の間に手をつきながら前傾姿勢で問いに応じた。腰掛けの頂部に合わせてスカートが広がっている。
「いやはや。その様子を見れば結果はわかっているのですが、あえて聴きましょう。やはり無理でしたか?」
 ツェナは言葉なくうなずく。言いたいこともいくつかあるようなのだが、荒れそうな感情をうまく言葉に表すことができないようだ。
「まぁ、焦らないでくだされ。わしのほうからも少しでも自由な時間がつくれるよう手配してみますので。お父上のご息女としての役目準備にお励みください」
「えぇ。でも、なんとかなりそう?」
「いざとなったら、それなりの手段もあるからのぉ……。フォフォフォ」
 老人は少女に気づかれぬよう、窓に目くばせをするのだった。

(一一)

 少年の頭に小石がぶつけられた。傷がつくほどの大きさの石でなければ、勢いでもなかった。その日はたまたま少年は帽子をかぶっていた。この帽子がなければ、小石を投げた人物の目的は果たされていたことだろう。
「いい天気だな〜」
 サビヌは空を見上げて呟いた。青い空には、ところどころに小さな雲が浮かんでいる。青い空が主役だと伝えるよう、さりげなく白い雲が浮かんでいた。
 コツン。
 今度は背中に小枝がぶつけられた。ちょっとびっくりしながら、少年は背後に振り返る。民家の壁にうつかる傭兵と目が合った。
「よっ」
 サビヌは周りを見回す。だが、傭兵の視線にある人影は少年一人だけだった。
 ――あれ? この人だれ?
 薄汚れた傭兵は、近くで見るとあまりこわそうではなかった。年下の少年相手ということで、表情を柔らかめにしているということなのかもしれない。
 傭兵は、少年の両肩に手を軽く乗せた。彼の瞳を覗き込む。
「すっかり治ったようだな」
 サビヌの全身をざっと見回した。彼の負傷した部分を的確に確認していた。
 ――この人……、僕の怪我した場所を知っている?
「すみませんが、あなたは……いったい?」
 傭兵の視線に別の何かを感じてしまったのか、少年は後ずさりしながら尋ねた。
「おいおい、俺にはそのケはないぜ」
 両手を肩の高さまであげ疑いを払拭しようと弁解する。慌てた風を装いながらも、さほど慌てた雰囲気はない。瞳には笑みを浮かべている。サビヌは全身の緊張を緩めた。
「あのとき、垣根の向こう側でお前さんの勇姿、しっかりみせてもらったぜ」
 両腕を組んで感心した旨を示すようにうなずきを繰り返す。だが、サビヌにはとんと見当がつかない。
「……はい?」
 傭兵は先ほどぶつけた小枝を手に取る。
「あのとき、いいあんばいの棒が落ちてきただろ?」
「う〜ん、そうだったかなぁ?」
 棒を見つめる。小刀を持っている相手に対し、何も持たない自分。確かにあの時は不安だった。
その不安をなくすために何かを拾ったような気はする。
「思い出したかな?」
「ありがとうございました。あのときは、あの棒のおかげでどうにか怖くなくなったんです」
 丁寧にお辞儀をする。むろん、礼法などを正式に習っているわけではない。礼拝堂のおばばに教わった簡単なものだ。だが、それだけに心から感謝していることが、傭兵の心には伝わった。
「今日ここにきたのは、な」
 少年の感謝にうなずきを返しつつ、傭兵は告げる。新しい道へ踏み出す誘いを。
「お前さんに剣を教えようと思ってな」
 傭兵が語るによれば、「棒でもって小刀とわたり合うこの肝っ玉、実にいい」ということだそうだ。
「えっ、でも……」
「心配するな。別に金はいらねぇよ。教わるかどうかは、今度聞かせてくれればいい。祭りの後、またここで会おうぜ」

(一二)

 ロザンスは長い間、独りだった。
 彼の領域内にある他の存在は、マドル・フスイのみであった。とはいえ、かの存在は、ロザンスを圧倒するものであり、意識の交流があるものではなかった。
 人という意識体は、長時間にわたり独りであるように創られてはいない。社会を必要とする存在なのだ。
 そして、彼の独りは数年ぶりに破られることになった。もしかしたら、数年ではなく、数ヶ月なのかもしれない。

 音がした。この領域では、ロザンスの発する音以外存在していなかった。だが、この音は、彼のものではない。
 書物に注いでいた視線を途切らせる。立ち上がり、発生源に向かって歩む。
 石扉の向こう側で音がしているようだ。彼のいるところから見れば、そこは扉である。だが、反対側から見れば、それはただの石壁だったはずだ。この扉を開けることは、彼の領域を他者にさらけ出すことになる。まだ無力なロザンスにとって、領域に他者の介入の機会をつくることは、望ましいものではなかった。

 扉を開けると、老婆が倒れ込んできた。


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予告/第一編 第五幕 祝祭  祭り。日常の秩序から解放されたエネルギーは、さまざな変異を見せつける。いつもとは違う光景、一夜限りの関係。少年は見るのだった。


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