占顔(七)
――ジジジジジジジ。
そろそろ日も暮れかかってきたのか、近場の草むらから虫の羽音が聞こえてくる。
明日は雨だな、サビヌはふとそのような想いにとらわれた。数年前に祖母から教わった言いつけの一つがしっかりしみ込んでいる。その祖母も先日終わった冬に他界してしまった。
ツンツンツン。サビヌの腰の辺りに何かが軽く触れたようだ。
サビヌが物思いから抜け出すと、ツェナのひじが腰をつついていた。
「そうだね、ラーノ師が言うなら、そうしたほうがいいのかな」
――なんでレナイって、いつも僕のこと、変な目で見るんだろう?
「ではこれで決まりね」
と、ツェナは抱きしめる。サビヌを見つめるその瞳は道端でかわいい子猫を見つけたのと似たような色を持っていた。
「ツェナさん、とうぶんのあいだ、サビヌをお願いします。私の目の届かないところで変なことが起こらないとは限らないので、その節はよろしくお願いします」
「大丈夫よ。扇動者が多少、荒事に手を染めてきたところでサビヌには指一本触れさせはしないわよ」
ラーノ、少年たちの頭目という順で彼女は軽く頭を下げ、退出の意思を表す。もちろんレナイなどに視線を合わせるようなことはなかった。ふだんの彼女ならば挑発の視線を向けるところなのだが、喜びの中にいる彼女にはそんな遊びをする必要がなかったのだ。
ツェナ、サビヌの二人は表通りまで出てきた。
「君、お腹空いてない?」
通りの端に構えたさまざまな屋台から香ばしい匂いが辺りに漂っている。そろそろ夕げの時間帯なのだから、当然だろう。酒を世話する屋台のいくつかはギルド帰りの男たちで埋まり始めている。
「今日はお姉ちゃん、少し多めにお金持ってきたから、出会った記念におごっちゃうね」
「でも……」
グー。
「ほら、お腹が食べたいって言ってるじゃないの」
グーーッ。
ツェナが顔を赤らめる。
「私も食べたいんだからいいでしょ。一人で食べるよりも二人で食べるほうがおいしいんだから」
ツェナはサビヌの返事を待たずに屋台が多数並ぶ市場のほうに引っ張っていった。
(八)
威勢のよい声が盛んに耳に入る、それがツェナの抱いた夕方の市場の第一印象だった。
キングーニャの西の市場は、ギルド街に近いこともあり、郊外の農業労働者よりもギルド勤めの手工業労働者と、その家族の利用が多い。そのためか、東の市場ほど土臭くない、とお忍びの貴族たちの利用も決して少なくはない。実際のところは、無産階級にして、上流階級の貴族たちにとってはどちらの市場も汗くさいということで印象はさして変わらないのではあるが。
サビヌが気づいたのは、ツェナの黙りよう だった。
――静かすぎる……。
先頭を歩いていた彼女を追い越し、顔を覗き込む。膨大な情報量に頭脳の処理能力が限界を迎えつつあるのが見てとれた。つまり、要するに、ツェナは混乱しているようだったわけだ。
人の流れのあるところで立ち止まるわけにはいかない。そういうわけで、サビヌは彼女を 引っ張り流れの比較的少ない道端へと導く。歩みを止めていた彼女は最初は引っ張られることに抵抗の様子を見せたものの、サビヌの顔を確認すると、何の抵抗もなく導かれるようになった。
――あの戸惑いかたは……。
サビヌらの動きを物陰から見つめていた男は、彼女の狼狽の仕方になにやら感じいるところがあったらしい。
男は、やがて屋台の一つに近づいていく二人の姿に応じて、位置を変えるのだった。
「ツェナどうしたの? どこか調子でも悪いの?」
場所を移した後、しばらく時間を経過させ、彼は彼女に声をかけてみた。その判断が正しかったのか、ようやく彼女は反応を返す。
「ごめんなさいね、実は私、市場ってはじめてで、ね」
ことさら安心させようと微笑みを浮かべてみるが、彼女の知らないうちに顔は赤くなっていた。
見つめあう二人、そしてそんな彼らをためらいがちに包みこむ風――。
一瞬の刻が無限に感じられる瞬間――。
ツェナの脳裏に幼き頃に聞きかじった恋物語の風景のいくつかが浮かび上がった。が、浮かび上がっただけである。
「よかったぁ。それじゃ、なにか食べにいこう。僕のお勧めを食べればきっと元気も出るよ」
――まだまだ出会ったばかりだし、サビヌもまだまだお子さまだしね。
ツェナは苦笑を浮かべつつ肯定の返事をする。
「そうね。それじゃ、君のお勧めで元気をつけるね」
ツェナが素っ頓狂な悲鳴をあげる。
「これを食べるの……」
彼女とサビヌの手に握られているのは一本の串。串に刺さっているのは、焼けたゴキブリ。
「いらないなら食べちゃうよ〜〜」
距離をおいて二人を見つめる男は確信を深めるのだった。
(九)
ツェナは慌てた様子で果実水をのどに流し込む。口内に残る異物感を洗い流そうとしているのだ。
そんな彼女をサビヌが心配そうに見つめている。
「ごめんなさい、やっぱりだめ?」
「いいえ、思ったよりはまずくなかったわ。心配かけてごめんね」
慌てて全身で否定の意志を表するツェナではあるものの、顔のひきつり方を見れば偽りであることは一目瞭然といえた。
結局、ツェナはゴキブリの串焼きを口にした。サビヌが勧めてくれたその心に感謝するためであり、市場で食されている食物を摂取することで下町の人々の仲間入りをするためであった。
今回の彼女の試みは成功したとは言いがたいのかもしれない。しかし、この場合は試みの成否よりも、その行為自体に意味があったのだから目的は果たせたといっていいだろう。
「おや、サビヌ。かわいいお嬢さんが一緒だね。でも、市場で買い食いなんて無駄遣いはいけないなぁ、母さんのおいしい手料理が腹に入らなくなるんじゃないかな」
藍色の衣に身を包んだ壮年の男性が二人のもとに近づいてきた。この衣は船家具ギルドの制服だった。
キングーニャは港町である。よって船舶関係の仕事には事欠かない。サビヌの父親の働いているのもその船舶関係のギルドの一つだった。
船家具ギルドは、この街で建造される船舶に家具を提供する職人たちの互助組織である。一般家屋向けの家具とは違う、海上に浮かぶ船舶向けの軽量で丈夫な家具を製作している。潮風の吹くこの街の家屋向けの家具は他の地域で使用される家具と比べれば塩害に対しての抵抗力が与えられている。このギルドでつくる家具はさらに潮風に対する抵抗力を強めるためさまざまな工夫を処している。魔術師組合との提携もその一つである。
「はじめまして、ツェナと申します。サビヌのお父様ですよね」
彼女は丁寧に藍色の男に一礼した。
「こりゃかわいいお嬢さんだね。改めましてはじめまして、サビヌの父、ピーレブです。いやぁ、若いっていいねぇ」
ピーレブは息子のわきを軽く小突く。
「な、なんだよ、父さん」
「それはさておき、買い食いはいかんなぁ。 ツェナさんは家で夕食を準備してくれていないのかな?」
「たぶん、準備していると思いますが」
「それじゃ、買い食いをしていると夕食が腹に収まらなくなりますよ。準備してくれるお母さんを悲しませてはいけない」
ピーレブは手ぬぐいで彼女の口の周りに残っていた、焼けた虫の足を払いのけながら語った。
[Back to the Index]__[Back]__[Next]
[このページの一番上に戻る]
[このコーナーの最初のページに戻る]
[管理人:たまねぎ須永へ連絡]