竜龕(一)
星下暦三三三年――。
少女の瞼が震えた。
「えっ……」
少女の体を濡れた布でぬぐってやっていた、母親は信じられないものを見た思いがした。己が腹を痛めて、少女を出産してから何度か瞼が震えるところを目にしたことはある。だが、今回の震え方ほど激しいものはなかった。
夢のお告げに従い、河原で流れてきた瓶を拾ってきたことは正しかったのかもしれない。あれは神様だったのか……。
母親は物思いにふけっていく。娘の体を拭いていく作業を続けていれば、緩やかに体温が上昇していくのに気づいたかもしれなかったのだが。
「娘さんの様子はいかがですか」
母親と娘がこの村に越してきてから十二年間繰り返されてきた、この質問はあいさつと似たようものであった。だが、込められてきた想いはあいさつ以上のものだった。
入ってきた婦人は隣家に住んでいた。ちょっと多めにつくった自分たちの食事の余りを持ってきた。婦人は家に唯一置かれたテーブルの上に料理の入った鍋を置くと、母親に断りを入れたうえで娘の眠る部屋に踏み入れていく。
「あら……、なんだかいつもより血色がいいみたいね」
「そうですか? 私は特に気づきませんでしたけれど」
「うぅん、でも、そう見えるけれど。へんに期待させてしまうかもしれないから、言わない方がいいなど主人に叱られそうだけれどね。でも、今日はほんとに何か違うと思うから」
婦人は少女の手を取って触れる。両の手のひらで小さな手を包み込む。農業に家事にと、さまざまな作業で鍛えられたかたい手からみると、生まれて一度も〈手〉としての機能を果たす行為をしたことのない少女の手は実に頼りないほどに、白く小さかった。
「ほんとに、いつもと比べてすごく温かいわよ」
婦人は母親を引っ張ってくる。そして、その白い手を握らせてやる。
「どう?」
母親は目を閉じて娘の体温を感じ取ろうとする。
「そう言われれば……、そんな気も……」
母親はどことなく戸惑いながら婦人の顔と少女の手の間で視線を往復させている。
「今回こそは、ほんっとに期待していいと思うわよ。こんなことを言うと主人に起こられると思うけれど、今回はいままでと違うわ。あなたも本当はそう思っているんでしょ」
母親はどう答えたものか数刻黙り込んだものの、結局静かに頷いた。
「そうですね。今回は、そうかもしれませんね」
翌朝。母親が水を汲んで戻ってくると、娘の寝床から声がした。
「おはようございます。お母さん」
母親の話した桶は地面に落ち、桶の中の水は周りに流れ出していき、やがて地に吸い込まれていった。
(二)
星下暦三二九年秋。
連合王国は、未だ安寧の中にあった。
「さて、きょうは何の話をしましょうかねぇ」
老婆は話しながら、糖菓子を口に運ぶ。
老婆の向かいには十数人の子供たちの姿が あった。これから聞くことのできる話への期待を隠せないでいる子供、老婆の目前にある糖菓子を物欲しそうに眺めている子供、早くも話が終わったあと何をしようか考え込んでいる子供……、たくさんの瞳が老婆のあたりに焦点が合わせられていた。
老婆は一同を見渡す。糖菓子に視線が向かっている子供の方を向いたときには、糖菓子を左手でつかみ、見せびらかすように口に運んでみせる。悔しそうな子供の顔に対し、自慢気な表情を見せた。
「みなさん、星下暦(せいかれき)というものを知っていますか」
子供たちの間から「知ってるよ〜」だの「知らな〜い」などの声が挙がる。その反応が収まるのを待ってから、老婆は話を再開した。
「我々、この陸地に住むものたちが使っている、時の過ぎ去り方を示す印です」
老婆は右手で木製の杯をとり、水を軽く口に含む。
――ツェナは〈星下暦〉って知っているのかな。
サビヌはちょっと物思いにとらわれかける。
――そういえば、彼女ってあまり自分のことを話さない気がする。どうしてかな。
「星下暦の『星下』とは文字通り『星が下りた』ことを表します。星下暦の始まりには、北方の無数にある山脈の一つに下りられたそうなのです」
「だれがおりたの〜」
「なにがおりたの〜」
幾人かの子供が疑念を口に表した。
その問いを耳にし、老婆は形相を崩す。己の話芸の流れに聞き手を巻き込めていることを確認できたからだ。
「神の偉大なる僕が下りてこられたのです。これにより、当時起きていた〈大戦乱〉も収まり、今の国の構えに大体落ち着いたわけなのです」
「連合王国はその時にはまだなかったって、うちの父さんが言っていたわ」
ちょっと大人びた少女が胸を張って皆に告げた。それを聞いて「そうなんだ」と納得する子供もいれば、「そんなこと知ってら」と過剰に反発する子供もいた。
「そうですね。我々の連合王国はまだ星下暦元年にはまだ成っていませんでした。そのときに成立したのは、北の帝国と東の王国でした。彼らの争いに巻き込まれないように、祖先らは知恵を絞り、『連合』王国という形を考え出したのでしたね」
鐘の音が聞こえた。今日の話はこれで終わりだ。
老婆は話をやめる。子供たちは礼を言い、礼拝堂から立ち去っていくのだった。
(三)
ロビンソンが汗をぬぐっていた。拭きおわるのを見計らって、若い従者が椀を差し出す。
「ふーっ。やはり一汗流した後はこれに限るな」
一気に飲み干し、椀を従者に返す。従者は椀を受け取った後、もう一枚布を差し出す。
「お主もなかなか好みがわかってきたようだな。ところで、先ほどの使者殿は何用だったのかな」
従者は汗を拭きおわった布を受け取りながらこたえる。
「老がお呼びです。夕食にお招きであります」
「うむ、そうか。ほかに何もおっしゃられていないな?」
従者は頷くと、退室していく。
ロビンソンは、汗の乾いた上半身に部屋着を軽く着込む。壁に立てかけておいた、訓練用の剣を倉庫に放り込み、邸内へ戻っていった。
自室に入ると、従者が外出着を運び込んでいるところだった。老のところに行くのである。己の身分を目立たせる必要は無い。むしろ、目立つことなく、周囲に溶け込めるものが望ましい。薄汚れた革鎧、傷だらけの鞘に入った長剣、端のほつれたマント。
ロビンソンの邸内には、彼と従者、そして賄い婦の三名がいるにすぎない。この外出着は彼が自ら見つくろってきたものである。
「いつも通り頼む。今日は非番だからだれも来ないだろうがな」
ロビンソンは着替え終わると、従者にそう告げ、部屋を出る。
「そうそう、マルナル婦人には夕食は外で済ましてくると伝えておいてくれ」
出がけに振り返り、こう言い残した。従者はすべて了解しております、と言わんばかりに深く頷いた。そして、主人の出ていった、通用口の扉を閉じていく。
ロビンソンが館にたどり着いた。その館は、商業区の奥まったところに建てられていた。豪商の別宅といった風情である。
「グルーフ師、あなたも招かれておいででしたか」
邸内の控え室に入ると四十目前の男性が茶をすすっていた。
「ロビンソン、ちょっと寄り道してきたのではありませんか」
「へっ?」
「まっすぐあなたが来られたとすると、少々背中が汚れているのはどういうことでしょうか。たぶん、どこかで寄りかかって何かを見ていたのでしょう?」
ロビンソンは背中を手でさすってみた。ちょっと土埃がついていた。
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