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自動車からこれからの日本の構造を考える

 私は自動車・バイクの個人所有を認めるべきではないと思っている。業務目的はもちろん認めるとして、通勤目的は判断の分かれるところである。むろん、趣味の対象としての自動車・バイクの所有はダメだろう。
 日本の国土の広さを考えるとクルマの数が多すぎる。さらに一カ所にクルマが集まりすぎている。おかげで悲惨な事故や、移動時間による物質的・精神的損失は膨大なものになっているといえるだろう。
 だからといって、いきなり自動車・バイクの個人所有を禁じるとどうなるか。日本の労働者の数割が自動車関係で生計を立てているだろう。こういう私とて、日産の城下町の一つに住んでいるので、いきなり禁じられると、激しい景気変動に巻き込まれることは必須だ。自動車組立工相手の店で働いているようなものだしね。

 私は自転車で移動することが多い。自転車1時間くらいは遠いとは思わなくなりつつある。この距離を自動車で移動すれば30分以上の節約はできるだろう。だが、いつ加害者になるかわからないという緊張状態と、リスクを侵してまで30分の時間を獲得してどうするというのだ? それならば、のんびり移動し、町並みの風景、空気のまずさを肌で感じ、しばしの思索に耽りながら移動する方がよほど人間的だろう。
 自動車だと、窓・屋根・扉で締め切って、個室の延長として活動ができるかもしれない。部屋の主人として、がんがんに自分の好きな音楽を響かせて、雨風にさらされる歩行者を哀れみと侮蔑に満ちた目で眺めながら移動する……。だが、自己満足の世界からは何も新しいものは生まれまい。
 日本の和歌は人々の自然とのつきあいの中から生まれ、はぐくまれてきた。その自然とのつきあいを拒絶してしまえば、現在の無機質な文化のみが生き残ることになるのだろうか。

 現在のガソリン車で生計を立てているトップ企業陣(車メーカー、ガソリンメーカーなど)が協力して環境に優しい車をつくることにしたそうだ。これは、急激なガソリン車の現象を警戒してのものと見ることもできる。こういうカルテル的なものを組まれてしまうと、行政が、現在のガソリン車を駆逐できるような画期的な電気自動車を発見したとしても(まずないだろうが)、その電気車を後押しできるような政策を施行することはできまい。それにより、現行の企業陣に悪影響を与え、その影響下で働いている人々の生計に被害を与えることはできないから。
 私としては、現行の人々に一時的に悪影響を与えてでも改革を断行してもらいたいのだが。

 道路。自転車で路肩を走っていると、非常に凸凹である。歩道を走ろうとすれば、歩行者に恐怖感を与えてしまう上に、車道と仕切るための大きな段差がタイヤに大きな損害を与えてしまう。といって、車道の端を走れば、大量の車が走ったために起きている路面の陥没の被害をもろに受けて、なかなか走りにくい。仕方なく、その段差を避けようとすれば、自然と車の走るエリアに近づくことになる。すると、車にストレスを与えることになり、車にクラクションをならされたり、無意味に幅寄せをされたりすることになる。
 確かに自転車は道路目的税を払っていない。だからといって、自動車のみを視点においた道路造りでいいのか?
 いろいろな自治体が「サイクリングコース」などというものを制定、整備している。が、実際走ってみると、「ウォーキングコース」と化していて、歩行者とすれ違うのが大変なコースや、自転車で走ってみると、非常に凸凹して走りにくいコースなどがたくさんある。確かに、そのようなものを決める権限を持つ偉い官僚さんや政治家さんは、サイクリングなんぞはしないから、実態を知らないでしょうし、気にもならないでしょうけれど。
 そもそも、「ウォーキング」と「サイクリング」を一緒にしてもいいと感じている担当者が日本に多すぎる。欧州では、確か、歩行者向けとは別に整備された自転車向け道路が多かったはず。歩行者にとって、自転車も危険な存在だということに気づいていないのだろうか?

 狭い日本の国土からすれば、自転車を免許制にして、自転車向けの道路行政を進めていくべきなのである。そのように社会構造を変えていくべきなのだ。
 いくら環境に優しい自動車をつくったとしても、あの車体の大きさを考えれば、快適に走るための道路、大量に収容するための駐車場をつくるためにたくさんの環境が犠牲になるのは当然のこと。そこを冷徹に考えて行ければ、と思う。(2001/02/18)


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