海神(一)
――母とは偉大なものだ。
男はそう漏らすと、妻の入れてくれた茶を啜った。
「そう思うのでしたら、そのお茶ももうちょっとありがたそうに飲んでくれても罰が当たらないと思うけど」
隣に住み着いてきた女性もだいぶここの暮らしに慣れてきたようだ。
「しかしまぁ、越してきた頃はだいぶ危なっかしかった掃除洗濯もだいぶマシになったようだね。おまえにずいぶんと感謝してたぞ」
妻はお代わりを注ぎ終え、夫に向き直る。
「む、どうした、急に笑ってみせるなんて」
夫は妻の顔をまざまざと見つめている。次第に妻の顔が赤らんでくる。それにつられ、夫の顔も色を変えだした。
「……そういえば、旦那さんもなしに寝たきりの娘さんを世話するなんて大変よね」
赤い顔で見つめ合う――その状態に耐えられず、先に目をそらしたのは妻のほうであった。
「女性のほうが現実的ときいたときは嘘だと思ったが、そういうもんかもしれないなあ」
どこか愉快そうに夫は茶を啜りつつ呟く。何杯も注がれているせいか、茶を啜るときに鼻に香りはほとんど届いてきていない。
「もうちょっと稼いでくれれば、お茶っ葉もどんどん替えていい匂いを楽しんでもらえるんだけどねぇ。家計を預かる身としては現実的になって葉の残りを大切にしなきゃいけないのよ」
夫は苦笑いで鼻を掻く。
「そういえば、青橋の商人さんがあすこに店を構える前に旦那さんに大恩を受けたとかでその伝手でこの村に引っ越してきたんだってね。生活費を貸してもらってるだけでじゃなく、代書仕事など回してもらっているんだよな」
この一言に妻は何度もせわしなく頷く。
「何度か書いているところを見たけれど、なんだか丁寧で落ち着いた雰囲気の文字だったわ――、もちろん何が書いてあるかわからなかったけどね」
夫の苦笑いは続いている。
「文字が読めないことをそう力説しなくてもいいだろう」
「いいじゃないの、あたしは文字が読めなくてもこうして生きてこられているんだから」
「そうはいっても、だなぁ」
「そもそも、あんただって読めないでしょ?」
「そんなことはない。商売の入り組んだ証文……だっけな、そういうのは読めないが、普通の手紙くらいは読み書きできるぞ」
「ふーん、ま、そういうことにしておいてあげる」
「な、なんだその言いざまは……」
夫が声を張り上げると同時に妻は立ち上がって言った。
「今度、隣の奥さんから文字を習えないか尋ねてみるね。みんなで教われば、奥さんの村での立場もよくなるし、ね」
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