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「行巻――科挙制度の副産物」

 在学中に書いたレポートをほぼそのまま転載しているので、多々読みにくいところがありますが、勘弁ください。とりあえず、「漢文学購読」という講義の読書感想文ということでのレポートだったはずです。課題図書はもちろん、漢文関係ですよ。

1.読んだ本 『唐代の科挙と文学』

著者  程千帆
訳者  松岡栄志
    町田隆吉
発行者 小木章男
発行所 株式会社 凱風社
1986年10月10日初版第一刷発行
(楽天ブックスのページ)

2.本論

 科挙がはじまったのは、隋王朝の文帝楊堅の治下、西暦 598年のことである。そして隋2代目の煬帝が明経科と進士科を置き、対策文を試験して士人を登用した。ちなみに策とは、出題者が問題を出して、それに対する意見を聞くことである。
 このように科挙についての本を読み、そのことについて考えてみるのは、日本文学を学ぶうえで無意味なわけでないと私は信じて、今、ここに書き始めている。それはなぜかというと、日本古典文学史上の一つの最盛期である平安時代中期には漢文の教養が、貴族が主である上流階級に学ばれていたからである。
 平安時代中期、即ち、摂関政治の最盛期には、中国の王朝は宋の時代であった。そして、宋の文化人の編じた唐の時代の作品(主に詩)が日本に流れ込んできていた。また、遣唐使の持ち帰ってきた書物には、当然、その当時、留学先で流行していた文学作品もあったろう。
 そして、日本に入ってきたそれらの作品を日本人が受け入れて、彼らの教養として吸収しただろう。そして、その思想・教養を共通背景として古典作品が創作されていったことは間違いのないことだと思われる。そうなると、それらの文学活動を通して、唐の時代の唐の文学の影響が現代日本にも流れているということになる。
 それだけの影響を与える唐の文学に対して、日本文学を学ぶ者も注意を払わねばならないということになる。そして、唐は隋の次の王朝である。唐は隋の政治体制を発展させ、強力な中央集権国家になった。即ち、唐は科挙を発展させたのでもある。唐の文化人は、ほとんどが科挙を受けている。そのことは、唐の文学を考えるのにあたって非常に重要なことである。だから、このレポートは「科挙」について書いてある本によるものなのだ。
 唐代に実施されていた科挙は、隋のものから発展したものであることは、先に述べた。その後、科挙が何回も、何回も実施されていくにつれて、科挙のシステムも完備されたものになっていった。そのシステムについては専門書を見れば済むのではあるが、ここにあげておく。まず、試験科目は、2つに分けられる。一つめは、毎年実施されるもので常科と呼ばれる。もう一つは、皇帝が詔を下して臨時に行うもので、制科と呼ばれていた。2つを比べてみると、かなり異なるものである。また、常科と制科を比べてみると、常科の方が人々に重要視されていたようである。
 常科の受験資格を得るには二つの方法があった。一つは、定員のある学校の生徒から試験で選ばれることである。もう一つは、学校に在籍しなかった者の道で、州・県に文書で申請し、そこで行われる試験に合格するという道であった。常科の下に配置されている科目は秀才(難しすぎるため、次第に空文化)・明経(儒教の経典の意義を問う試験が重要視された科)・俊士・進士・明法・明字・明算・一史・三史(「史記」・「漢書」・「後漢書」の三つの歴史書の研究)・開元礼・道挙・童子などであった。これだけ多くの科目があったのだが、時の移り変わりとともに、明経科と進士科のみが、重要視されるようになっていった。そのいきさつであるが、まず秀才科は前出の括弧の中で述べたとおり名前だけのものとなった。次に、明字・明法・明算などの科は、その科目の性質上、人々から重視されなかった。俊士・一史・三史・開元礼・道挙・童子などの科目においては、恒常的に科挙が実施されたわけでなく、次第に人々の記憶から消えていき重要視されることはなかった。
 人々に重要視されるようになった明経科と進士科であったが、どのようにして選ばれたのか。当初は、経義(儒教の経典の意義)もしくは時務策(時事問題)についての対策文による試験のみであった。しかし、次第に内容は増えていき、玄宗の治世では以下のとおり実施されていた。明経科では、帖経(儒教の教典に対する知識を試すための試験で、いわゆる「伏せ字あて」である。教典の両側をおおって真ん中の一行を残し、さらに行中の何文字かを紙で貼り隠し、受験者に隠された文字を読ませた。初期は口答であったが、後に筆記となった。帖経墨義とも呼ぶ)、経義、対策文の順に行われた。もちろん、先に述べたとおり、帖経は重要視された。進士科では、帖経、詩賦、対策文とやっていかれる。この科では詩賦が重く見られた。その後も、度々試験内容は変化したが、重要視される科目の変化はなかった。
 試験制度を見てみると、明経科では儒教の教典とその注釈を暗記してしまえば簡単だった。現代の詰め込み式知識を争う受験戦争と同じである。だが、進士科においては詩賦、即ち漢詩を作る文学的才能が必要であった。現代でいう小論文を重視する東海大学のような受験制度である。そのため、科挙の合格率は明経科が進士科の10倍を上回っていた。そのため、王定保の『唐?(一字JISコードなし「才庶、てへんに庶という字」)言』巻1、散序進士にこう書かれているそうである。
    三十なれば老いたる明経
         わか
    五十なれば少き進士
その合格難易度の差によって、明経科出身でいくら出世しても、進士科合格者の方が権威が強かった。
 明経・進士科のある常科を見てきたが、ひとまず、一度他の科も見てみることにする。まずは、常科と対比関係にある制科を見る。制科が天子の詔によって臨時に実施されるということは先に述べた。この制科の合格者を決めるのは、天子自身である。常科の場合はそこそこの身分を持つ官吏が合否を決めることになっている。合格決定者の違いを見ると制科合格者は、皇帝のお気に入りになりそうな気がする。しかし、皇帝がどんなに、自分で選び出した人材に高い身分を授けてやっても、制科出身者は進士科出身者に勝る権威を持つに至らなかった。
 また、制科・常科以外にも官吏任用試験の方法があった。それは武挙と呼ぶ。これは、読んで字のとおり、武芸の優れている者が合格する試験制度であった。もちろん、この試験を合格した者も、進士科に及ぶ権威が得られるわけがなかった。
 最終的に言って、進士科は常科に限定されずに、唐代科挙制度において最高位の科目であったのだ。
 ところで、この時代の答案は受験生の名前を隠さずに処理された。また、所定の学校で受験資格を得なくとも、推薦によって受験資格を得ることもできた。推薦を出すのは、ある程度の身分を持った官吏である。その中には高官と称される身分の方々もいる。そして試験の責任者はそこそこの身分の者であり、高官より身分が低かった。そうなると、当然圧力という高官の職権濫用が起こってくる。よって、科挙という試験体制は公正ではなくなっていった。
 さて、答案の名前部分をのりで隠さなかったのは、別の意味も持っている。受験生の普段の作品や評判も参考にしようという意味である。時には、答案を気にせずに評判だけで合否を決めることもあったそうだ。また、試験の責任者の親戚や知り合いが代わりに、人材をさがしてそこから合格者を選ぶ場合もあった。
 その状況に対応することによって、進士科の受験生は合格へと近づこうとした。その対応策とは、行巻である。それは受験生が、才能を認めてもらうために、有力者に贈った作品のことである。別に、有力者だけでなく、試験責任者にも贈る必要があった。それは、省巻(公巻とも)と呼ばれていた。ちなみに行巻と省巻の内容は特に変わらなかった。ただ、送り先が違うので、別の名で呼ばれていたにすぎない。さて、行巻の内容だが、詩賦という不十分な文学能力の発揮のものだけではなく、十分に自分の文学能力を見せつけられるものであった。試験の前に、半年以上をかけて書かれた作品集を贈るわけである。その作品の評判が進士科の合格に関わるわけであるので、行巻から様々な作品が生まれた。現在、我々を楽しませてくれる唐の文学のほとんどは、その行巻から生まれたといって過言ではない。その点にこの本を読む意味はあったのであり、行巻の重要性が出てくるのである。
 ところで、文学的才能を見るものとして、科挙の試験科目の中に詩賦があるのは、先ほど述べた。進士科を合格した者の中には、その詩賦においての作品で現代においても鑑賞に値するというだけの作品を残した者はほとんどいない。それは、先ほど述べたとおり、詩賦の問題と求める解答の様式が、良いできに結びつきにくいものではなかったからだと書かれている。だからこそ、進士科受験者は自由闊達にのびのびと作品を作れる行巻の風習を流行させたのだろう。
 また、行巻のための作品作りに忙しすぎた人物や、詩文に優れているものの中には、暗記科目である帖経を大厄と考える者もいた。そのときには、帖経の代わりに詩を作らせて目をつぶることもあった。これを贖帖と呼んだ。これは帖経の軽視のあらわれである。即ち、暗記の大事な明経科への軽視の拡大現象ということも考えられる。
 ところで、明経科は行巻の風習はなかった。なぜなら、暗記科目である経義を行巻に書いても、試験官は受験者がどのくらい暗記をしているのかを知りたいのであるので意味がなかったことが一つ。もう一つは、文学的才能のような難しいものを必要としなかった明経科において、事前工作の必要性がなかったことである。
 さて、唐の時代が終り、五代十国の時代を経たのち、中国大陸は宋王朝の支配下にあった。今までの王朝と同じように、宋も科挙を実施した。そして、この王朝では答案の名前の部分ののりつけが正式採用された。それによって、宋の初期に行巻は行われないようになっていった。事前工作としての行巻の役割はそこに終わったのである。
 宋の頃には、唐の文学作品を広く人々が楽しむことができた。楽しまれた作品のほとんどは、唐の時代に行巻として作られたものであった。これは、宋の時代になっても唐の行巻が保存されていたことと、唐の文学が非常によくできていたことを示している。この本は、王安石の『唐百家詩選』が行巻によって、編集されていることを詳しく述べている。行巻も科挙の答案も相当の量が残されていたことを考えると、行巻には優れていた作品が多かったということがわかる。先ほど、述べたとおり、科挙の詩賦は様式や形式にうるさくて、芸術的作品を作るのが困難だったことがよくわかることである。
 行巻で使われている作品の様式にはいろいろある。文学史に影響があると思われるのは伝奇小説と古文運動である。両方とも、盛り上がりはじめたのは中唐のころである。それらの中には、現在も十分楽しめるものがだいぶある。私としては、伝奇の方が好みなのだが。
 伝奇小説は、受験に成功するために発生したといってあやまちではない。行巻という風習は、有力者に対して行われるものであった。というわけで、有力者には何千本もの行巻が山積みのように贈られた。行巻の提出できる量は、受験者に対して定められていたのだが、広大な中国大陸の中央政府の高官への入り口である進士科には、おそろしく膨大な数の受験者がやってきたので、有力者のところには、見るだけでも疲れそうなほどの作品が届けられたのである。それだけの量の行巻を最初の部分だけで見ていったとしても、卒論の処理をする大学教授の何十倍もきついものだろう。全くその行巻を見ずに燃料とされてしまったことがあるのも当然であろう。それでも、受験者はあきらめきれずに行巻を作っていった。中には盗作もあったのだが、ほとんどの受験者は精一杯作った。その結果、冒頭にインパクトのあるものを配置するようになった。インパクトのあるものは、都で評判のいい出来事や自己の最高の作品・自己の評判のいい作品などであったが、人外の化け物が登場する「伝奇」物へと大勢は変化していった。それらの中には、現在、伝奇物として読むことのできる読み物として、公開されているものも多数含まれている。伝奇物に対して、行巻は大きな促進作用があったのだ。
 今度は古文運動を見てみよう。唐代に使われていた文体とは漢代の文体は違っていた。漢代の文学、文体に戻しての作品創造が古文運動であった。当然、科挙にある詩賦は唐代の文体、時文であった。その文体とは古文活動は敵対するものであったが、古文活動派の勢力拡大のために詩賦対策も行われていた。では、どこに古文を使うのかというと、やっぱり、行巻に対してであった。それでもって有力者に贈るのだった。そういう戦略をとって最初に歴史の表舞台出てきたのは韓愈であった。その後、韓愈が有力者となったので、古文を書いて気に入られようとするものが増え、古文の勢力があっという間に増大した。むろんその中に、本当に古文を志した者が混じってたのは当然のことだろう。しかし、古文に反対する人々が当然いた。その伝統的勢力を本当の敵ににまわすのは、無茶なので、結局のところ時文を科挙から消すのは不可能であった。そのところの妥協をしたものの、それでも古文活動派は十分な勢力に成長した。これは行巻という風習をうまく利用した韓愈の勝利であった。
 さて、ここまで平安国風文学への発展の力の源となった唐文学を、科挙という体制について見た。そして、その後で、科挙の裏に行巻という風習があり、それこそが唐文学を作りあげたということを見てきた。実際、私は行巻の存在自体が未知の存在であった。それだけにこの『唐代の科挙と文学』という本の意義は大きいのだと、切に感じ入っている。日本においては、上流階級でなければ教養というものはなかったというのに、中国においては、科挙のおかげで広く広大な中国大陸全土から文学作品が作られることとなったといってよいだろう。行巻の存在意義は、出世の補助のためであったが、文学に対しても立派な働きを持つことができて、重要な意義を持つに至っている。このことが広く世間に知られないのは惜しいことであった。日本文学における漢文学という分野でもこのことをもっと、取りあげてゆかなければならないと思うのである。

 本稿は私が、大学に入学した年に書いた夏のレポートです。もとの本の要約部分が多く、感想文として提出したものですが、要約文という名前のほうがふさわしい内容になっています。なさけないことです。

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